بيت / ラノベ / 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える / 12話 12話 報せと矛盾と、三人の夜

مشاركة

12話 12話 報せと矛盾と、三人の夜

مؤلف: 白石マサル
last update تاريخ النشر: 2026-08-08 18:00:38

 レインが三度目にルシェムを訪れた日、空は晴れていた。

 珍しいことだ、とエリナは後になって思った。彼と会う時はいつも雨が降っているような気がしていたからだ。初めて会った日も、二度目に消毒液を見せた日も、雨が降っていた。

 だからその日、青空の下を歩いていた時に後ろから声をかけられた瞬間、一瞬、誰だかわからなかった。

「靴底の紐、変えたんだな」

 振り返ると、陽の光の中にレインが立っていた。

 旅装束は前よりも少しだけ新しくなっていた。まだ質素だが、布の擦り切れが少ない。革鞄は同じものだが、手入れされているのがわかる。右の靴底には、麻紐ではなくちゃんとした革の補強が施されていた。

「……修理したんだ」

「前回も言った」

「今回は紐じゃなくて、ちゃんと直してる」

「合理的な投資だと気づいた」

 淡々としたやり取り。エリナは、そのごく当たり前のような会話に、なぜか少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。

「来ると聞いてなかったけど」

「伝えてない」

「どうやってここがわかったの」

「長屋の場所をマリオに聞いた」

 言われて周囲を見回すと、少し離れたところでマリオがこちらを見ていた。目が合うと、なぜか妙ににやけた顔をして手を振ってきた。

「マリオが妙な顔をしてる」

「知ってる」

「何か吹き込んだ?」

「何も」

 嘘だとわかった。だが今追及するのはやめた。

「とりあえず中に入って」

「客人か?」

 背後から別の声がした。

 フィオナだった。

 アッシュフォード商会の拠点として借りている隣室の扉にもたれかかり、腕を組んでこちらを見ていた。今日もいつものように、少し乱れた栗色の髪を後ろでまとめ、動きやすい簡素なワンピースを着ている。

 目が、面白そうに光っていた。

「噂の魔法使い君ね?」

「……誰だ?」

 レインがわずかに眉を寄せた。

「フィオナ・クロスベル。ここの参謀見習い」

 フィオナが軽く顎をしゃくった。

「この前、小屋で話したって聞いたわ。あなたの話、少しだけ」

「どこまで話したの?」

 エリナが横から割り込んだ。

「あなたが合理主義者で、口数が少なくて、魔法の才能がバカみたいに高いってところまで」

「余計な形容詞がついてない?」

「事実を言っただけ」

 レインがエリナを見た。その視線が「なぜそんな話をした」と言っているのを、エリナは感じた。

「話した覚えは……あるような、ないような」

「私は質問しただけ。答えたのはあなたよ」とフィオナが肩をすくめた。

「まあいいわ。中で続きましょう。外で立ち話するには、話が多そうだから」

 事務兼作業部屋に三人で入った。

 壁一面に貼られた薬草の分類図、棚に並ぶ石鹸と薬草薬のサンプル、机の上に積まれた帳簿と紙。小さな空間だが、情報と物資がぎっしり詰まっている。

 ルナは外に採取に出ていた。ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけている。マリオは荷物の運搬中だ。

 今日は珍しく、中心メンバーのうち三人だけが小さな部屋に集まった。

「お茶を淹れる」

「カモミール?」

「他に何があると思ってるの?」

「選択肢がないのは合理的じゃない」

「うるさい」

 言いながら、いつものようにケトルに水を入れ、火にかける。水が温まるまでの数分間、沈黙が流れた。

 沈黙を破ったのは、意外にもフィオナだった。

「学院で、どれくらい騒ぎになってる?」

 レインが視線を向けた。

「何の話だ?」

「決まってるでしょう。石鹸と消毒液。それから、魔法抜きで怪我人と病人を減らしている変な子どものこと」

「変な、は余計」エリナが小さく抗議した。

「でも事実でしょ?」

 レインが少しだけ口の端を動かした。笑い、なのかもしれない。

「騒ぎというほどではない。だが、治癒魔法師の一部と薬草学の講座では、ルシェムの事例が教材に使われ始めている」

「教材」

 エリナがその言葉を繰り返した。

「『魔法を使わない衛生改善の試み』という題で、講義が一つできた。俺も何度か出席した。お前の名前が出た時は、教室が少しざわついた」

 フィオナが興味深そうに身を乗り出した。

「ざわついたって、どんなふうに?」

「『無適性の元令嬢がそんなことを?』という驚きと、『本当にそんなことができるのか?』という懐疑と、『魔法師の仕事を取る気か?』という反発と」

「だいたい予想通りね」

 フィオナが肩をすくめた。

「既得権益を脅かされると、人は騒ぐ」

「一部の若い魔法師は、興味を持っている。『魔法と知識を組み合わせれば、もっと面白いことができるのではないか』と」

 エリナはケトルの湯気を見つめたまま、黙って聞いていた。

 教材。

 前世で、自分が学ぶ側だった時代のことを思い出した。ホワイトボードに書かれた論文のタイトル。スライドに投影された先人たちの名前。自分が今、そのスライドの端っこに入っているかもしれない、と想像すると、奇妙な感覚になった。

「嫌?」

 フィオナの問いかけに、エリナは瞬きした。

「何が?」

「名前だけ一人歩きして、実物を知らない人間が好き勝手に評価してる状況。嫌じゃない?」

 エリナは少し考えてから、首を振った。

「嫌、ではない。気持ち悪くはあるけど」

「気持ち悪い?」

「情報が不完全なまま流れてるから。正確さが足りない。だから気持ち悪い」

「そこ?」

「そこ」

 フィオナが小さく笑った。「本当に、そういうところよね」

 カモミール茶を三つの湯呑みに注いだ。

 フィオナは香りを嗅いで「悪くない」と言い、レインは黙って口をつけた。エリナは自分の分を手に取りながら、レインに向き直った。

「今日は、何の用?」

「二つある」

「一つ目から」

「石鹸と消毒液の追加注文」

 レインが鞄から紙を取り出した。

 「学院の医療棟で試験的に使った結果、一定の効果が確認された。特に手術前後の消毒に使うと、傷の化膿率が目に見えて下がった」

 エリナの背筋がわずかに伸びた。

「数字は?」

「ここに」

 レインが紙をテーブルに置いた。

 「症例数、感染件数、日別の推移。三ヶ月分だ」

 エリナは紙を引き寄せた。数字が並んでいる。前世で何度も見たタイプの表だ。エクセルではなく手書きだが、構造は同じだった。

 傷の感染率が三分の二以下に下がっている。特に、手術後二日目から四日目のピークがなだらかになっている。

 ちゃんと効いている。

「学院としては、このまま使用を続けたいと思っている。ただ——学院が正式に採用するとなると、魔法省の許可が必要だ。その過程で、クロヴェル侯爵の耳にも入るだろう」

 フィオナがすぐに反応した。

「つまり、あなたが来た一つ目の用件は『喜ばしい報せと、面倒ごとの予告』ってわけね」

「そういう言い方もできる」

 エリナは紙から目を離した。

「学院での採用は止めるべき?」

「それを決めるのはお前だ」

「レインはどう思う?」

「合理的に考えれば、採用すべきだ。救える命が増える。魔法師の負担が減る。患者の家族の負担も減る。それはこの国全体にとって利益だ」

「でもクロヴェルが動く」

「動く可能性は高い」

 フィオナが唇を尖らせた。

「動くって、どの程度?」

「おそらく最初は、学院に圧力をかける。『魔法以外の手段に頼るのは王国の誇りを傷つける』とか『魔法師の職域を侵す』とか、そういった名目で」

「くだらないわね」

 フィオナが吐き捨てた。

「くだらなくても、力を持っている人間が言えば現実になる」レインは淡々としていた。

「だからこそ、お前に知らせに来た」

 エリナは、しばらく黙っていた。

 数字を見る。学院で救われた命の数を、頭の中で具体的な顔のない人間たちに置き換える。ルシェムでのクラウス、子どもたち、グレンの手。あの延長線上にいる人たち。

 それから、クロヴェルの顔を思い浮かべた。まだ一度も直接会ったことのない男の顔。ダリウスの、どこか影のある横顔。

「止めない」

 自分でも驚くほど、即答だった。

 フィオナが少し目を見開いた。レインは特に驚いた様子を見せなかった。

「理由を聞いてもいいか?」

「学院で救われる人間の数と、クロヴェルの不機嫌とを天秤にかけた。前者の方が重い」

 フィオナが、ふっと息を漏らした。

「そういうところ、本当に好きよ」

「褒めてる?」

「褒めてる」

 レインが少しだけ目を細めた。

「俺も、同じ結論だ」

「じゃあ話は早い。学院の採用は進めて。私たちはこっちでクロヴェルに備える」

 「備える?」と言い、フィオナが片眉を上げた。

「どうやって?」

「それが二つ目の用件。国王陛下が、お前に会いたがっている」

 部屋の空気が、わずかに変わった。

 カモミールの香りも、木のきしむ音も変わっていないのに、空気の密度だけが変わったような気がした。

「……今、何て」

 エリナが聞き返した。

「国王陛下が、お前に会いたがっている。ルシェムの件、ベルナでの取引、学院での成果。いくつかの報告が陛下の元に届いた。その中に、お前とアッシュフォード商会の名前がある」

「なぜレインがそれを」

「俺の師匠が、陛下直属の魔法師団にいる。その経路で聞いた」

 フィオナが腕を組んだまま、低く口笛を吹いた。

「……とんでもないところまで行ったわね、あんた」

「行ったつもりはない」

 エリナは小さく言った。

 王都ヴァルテ。玉座の間。国王。父がかつて夢見た「魔法に頼らない国家」の話を、わずか七歳の娘がその本人に語ることになるかもしれない。

 実感は、まだなかった。

「陛下は改革派だが、完全に自由なわけではない。貴族たち、とくにクロヴェルのような大貴族の圧力を受けている。その中で、平民出身の魔法師や、魔法以外の手段を持つ人間に興味を持っている」

「だから、私?」

「そうだろうと推測している」

 フィオナがエリナを見た。

「行くつもり?」

「行かない選択肢はある?」

「あるにはあるけど、それはそれで不自然ね。国王の招きを断った無適性の没落令嬢、ってレッテルが付く。それはそれで面倒」

「行く。ただし、準備が必要」

「当然ね。陛下がどんな人間か、何を求めてるか、どこまで本音で話せるか。事前に情報を集める」

「それは任せよう」とレインが言った。

「俺には宮廷の情報を集めるルートがある。ただ、時間はあまりない」

「なぜ?」

「クロヴェルも、お前に手を伸ばし始めているからだ」

 エリナはダリウスの顔を思い浮かべた。穏やかな笑みと、笑いと一致しない目。その奥に隠された何か。

「どの程度、動いてる?」

「学院の一部の教師に、『魔法以外の手段を過度に評価するな』という通達が出た。名指しではないが、ルシェムの事例を暗に牽制している」

「早いわね」フィオナが舌打ちした。

 「でも、まだ直接じゃない。牽制の段階」

「そう。だからこそ、国王に会うタイミングは今が最適かもしれない」レインが続けた。「クロヴェルが完全に動き始める前に、陛下とのパイプを作る」

 エリナはゆっくりと息を吸った。

 父が夢見た場所。

 玉座の間。王と直接話せる場所。

 そこに、七歳の自分が行こうとしている。

 怖くないと言えば嘘になる。でも——

「行く」

 やはり、即答だった。

 フィオナが小さく笑った。

 「と思った」

「怖くないのか」レインが聞いた。

「怖い」

 エリナは正直に言った。

 「でも、怖くても行くしかない場所ってある」

 レインの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「……そういうところも、変わらないな」

「前にも言った?」

「似たことを」

 フィオナが二人を見比べて、わざとらしく咳払いした。

「はいはい、真面目な話は一旦ここまで」

「どこが真面目じゃないの」

 エリナが眉をひそめた。

「空気が固くなりすぎてるのよ」

 フィオナが肩をすくめた。

「それに——レイン、あなた一つ勘違いしてる」

「何を?」

「この子、怖い怖い言いながら、怖いことを選ぶタイプだから。『無理をするな』って言っても無駄よ」

 レインがエリナを見た。

「……知っている」

「じゃあなぜまた来たの?」

 フィオナがニヤリと笑った。

 「合理的に考えれば、情報だけ誰かに託してもよかった。わざわざ自分で来た理由は?」

 レインが少し黙った。

 沈黙が、また落ちた。

 エリナは、なぜか少しだけ胸がざわついた。答えを聞きたくて、でも聞きたくなくて、そんな矛盾した感情が一瞬で駆け巡った。

 レインはやがて、いつもの平坦な声で言った。

「情報の伝達は、誤差が少ない方がいい」

「……それだけ?」

「それだけだ」

 フィオナが肩を落とした。

「はい出ました、合理的言い訳」

 エリナは、なぜか少しだけほっとした自分に気づいて、内心で首を振った。

 何に安心してるの。意味がわからない。

 その夜、三人は遅くまで机を囲んだ。

 王都への旅程、いつ出発するか、誰を連れて行くか。留守の間の商会の運営体制。クロヴェルがどのタイミングでどんな手を打ってくるかの予測。

 フィオナが宮廷と貴族社会の情報を並べ、レインが学院と魔法省の内部事情を補足し、エリナがそれを整理して行動計画に落とし込む。

 気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

 マリオが途中から帰ってきて、「難しい話してるなぁ」と頭を掻きつつ、お茶を運んだ。ルナは隅っこで静かに薬草を仕分けしながら、時々こちらを見ていた。

 不思議な夜だった。

 ルシェムの小さな長屋の一室で、王都の政治と魔法省の思惑と、国全体の衛生政策の話が同時に進んでいる。その中心に、自分がいる。

 現実感は、やはり薄かった。

 でも——

 机の向こう側にいるレインとフィオナの顔を見ていると、不思議と「できないこと」より「できること」が先に浮かんだ。

 一人じゃない。

 その実感が、怖さを少しずつ上書きしていく。

 夜も更けて、話が一段落した頃。

 レインが立ち上がった。

「今日はここまでだ。宿に戻る」

「泊まっていけば――」

 エリナが言いかけて、フィオナと目が合った。フィオナが微妙にニヤついた顔をしていたので、咄嗟に言葉を飲み込んだ。

「……宿は取ってあるの?」

「取っていない」

「じゃあ泊まっていけば?」

 フィオナが代わりに言った。

「どうせまたここに来るんでしょうし」

「そうだろうな」

 レインが素直に頷いたのが、なぜか少しおかしかった。

 その夜、レインは再びエリナの家に泊まった。

 前回と違うのは、フィオナも隣室に残っていたことだ。三人で遅くまで資料を広げていたせいで、寝る時間がずれ込んだ。

 寝床に入る前、エリナはふと窓の外を見た。

 いつの間にか、雨が降り始めていた。

 遅れてやってきた、レインの雨。

 やっぱり、あなたは雨と一緒に来る。

 そんなことを一瞬だけ思って、すぐに首を振った。

 意味のない相関関係に意味を見出すのは、合理的じゃない。

 そう自分に言い聞かせながら、布団をかぶった。

 でも耳は、屋根を打つ雨音を数えていた。

 いつの間にか、眠りに落ちていた。

استمر في قراءة هذا الكتاب مجانا
امسح الكود لتنزيل التطبيق

أحدث فصل

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   25話 レインの返事と、八歳の朝

     レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。  その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」「ありがとう」「何か食べたいものはある?」「いつも通りで」「少しくらい特別なものを頼みなさい」「じゃあ、パンに蜂蜜を」「それだけ?」「十分です」  セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」「うん」「何か欲しいものはあるか?」「今のところない」「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」「好きなことというのが、難しい」「難しい?」「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」「それを忘れろ、今日一日だけ」「忘れたら困る」「本当につまらないな、お前は」  マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。 エリナへ  父上の言葉について、書いてくれてありがとう。『この子は私よりうまくやる』という言葉

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   24話 セレーナの語る人

     橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。  朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」  エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」  セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」  エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」  エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。  マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。  役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   23話 橋が開く日

     流通が止まってから五日が経った。  その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」  七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」  マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ  動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   22話 流通が、止まる日

     物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。  朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」  エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」  書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」  男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」  ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」  エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   21話 ダリウスの再訪

     ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』  エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』  ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」  ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」  エリナ

  • 灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える   20話 レインが来た日、石鹸が燃えた

     レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」  エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」  マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」  お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」  エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」  レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ

فصول أخرى
استكشاف وقراءة روايات جيدة مجانية
الوصول المجاني إلى عدد كبير من الروايات الجيدة على تطبيق GoodNovel. تنزيل الكتب التي تحبها وقراءتها كلما وأينما أردت
اقرأ الكتب مجانا في التطبيق
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status