تسجيل الدخولレインが三度目にルシェムを訪れた日、空は晴れていた。
珍しいことだ、とエリナは後になって思った。彼と会う時はいつも雨が降っているような気がしていたからだ。初めて会った日も、二度目に消毒液を見せた日も、雨が降っていた。
だからその日、青空の下を歩いていた時に後ろから声をかけられた瞬間、一瞬、誰だかわからなかった。「靴底の紐、変えたんだな」
振り返ると、陽の光の中にレインが立っていた。
旅装束は前よりも少しだけ新しくなっていた。まだ質素だが、布の擦り切れが少ない。革鞄は同じものだが、手入れされているのがわかる。右の靴底には、麻紐ではなくちゃんとした革の補強が施されていた。
「……修理したんだ」
「前回も言った」 「今回は紐じゃなくて、ちゃんと直してる」 「合理的な投資だと気づいた」淡々としたやり取り。エリナは、そのごく当たり前のような会話に、なぜか少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「来ると聞いてなかったけど」
「伝えてない」 「どうやってここがわかったの」 「長屋の場所をマリオに聞いた」言われて周囲を見回すと、少し離れたところでマリオがこちらを見ていた。目が合うと、なぜか妙ににやけた顔をして手を振ってきた。
「マリオが妙な顔をしてる」
「知ってる」 「何か吹き込んだ?」 「何も」嘘だとわかった。だが今追及するのはやめた。
「とりあえず中に入って」
「客人か?」背後から別の声がした。
フィオナだった。アッシュフォード商会の拠点として借りている隣室の扉にもたれかかり、腕を組んでこちらを見ていた。今日もいつものように、少し乱れた栗色の髪を後ろでまとめ、動きやすい簡素なワンピースを着ている。
目が、面白そうに光っていた。「噂の魔法使い君ね?」
「……誰だ?」レインがわずかに眉を寄せた。
「フィオナ・クロスベル。ここの参謀見習い」
フィオナが軽く顎をしゃくった。
「この前、小屋で話したって聞いたわ。あなたの話、少しだけ」
「どこまで話したの?」エリナが横から割り込んだ。
「あなたが合理主義者で、口数が少なくて、魔法の才能がバカみたいに高いってところまで」
「余計な形容詞がついてない?」 「事実を言っただけ」レインがエリナを見た。その視線が「なぜそんな話をした」と言っているのを、エリナは感じた。
「話した覚えは……あるような、ないような」
「私は質問しただけ。答えたのはあなたよ」とフィオナが肩をすくめた。「まあいいわ。中で続きましょう。外で立ち話するには、話が多そうだから」
事務兼作業部屋に三人で入った。
壁一面に貼られた薬草の分類図、棚に並ぶ石鹸と薬草薬のサンプル、机の上に積まれた帳簿と紙。小さな空間だが、情報と物資がぎっしり詰まっている。
ルナは外に採取に出ていた。ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけている。マリオは荷物の運搬中だ。 今日は珍しく、中心メンバーのうち三人だけが小さな部屋に集まった。「お茶を淹れる」
「カモミール?」 「他に何があると思ってるの?」 「選択肢がないのは合理的じゃない」 「うるさい」言いながら、いつものようにケトルに水を入れ、火にかける。水が温まるまでの数分間、沈黙が流れた。
沈黙を破ったのは、意外にもフィオナだった。「学院で、どれくらい騒ぎになってる?」
レインが視線を向けた。
「何の話だ?」
「決まってるでしょう。石鹸と消毒液。それから、魔法抜きで怪我人と病人を減らしている変な子どものこと」「変な、は余計」エリナが小さく抗議した。
「でも事実でしょ?」
レインが少しだけ口の端を動かした。笑い、なのかもしれない。
「騒ぎというほどではない。だが、治癒魔法師の一部と薬草学の講座では、ルシェムの事例が教材に使われ始めている」
「教材」エリナがその言葉を繰り返した。
「『魔法を使わない衛生改善の試み』という題で、講義が一つできた。俺も何度か出席した。お前の名前が出た時は、教室が少しざわついた」
フィオナが興味深そうに身を乗り出した。
「ざわついたって、どんなふうに?」
「『無適性の元令嬢がそんなことを?』という驚きと、『本当にそんなことができるのか?』という懐疑と、『魔法師の仕事を取る気か?』という反発と」
「だいたい予想通りね」
フィオナが肩をすくめた。
「既得権益を脅かされると、人は騒ぐ」
「一部の若い魔法師は、興味を持っている。『魔法と知識を組み合わせれば、もっと面白いことができるのではないか』と」エリナはケトルの湯気を見つめたまま、黙って聞いていた。
教材。
前世で、自分が学ぶ側だった時代のことを思い出した。ホワイトボードに書かれた論文のタイトル。スライドに投影された先人たちの名前。自分が今、そのスライドの端っこに入っているかもしれない、と想像すると、奇妙な感覚になった。
「嫌?」
フィオナの問いかけに、エリナは瞬きした。
「何が?」
「名前だけ一人歩きして、実物を知らない人間が好き勝手に評価してる状況。嫌じゃない?」エリナは少し考えてから、首を振った。
「嫌、ではない。気持ち悪くはあるけど」
「気持ち悪い?」 「情報が不完全なまま流れてるから。正確さが足りない。だから気持ち悪い」 「そこ?」 「そこ」フィオナが小さく笑った。「本当に、そういうところよね」
カモミール茶を三つの湯呑みに注いだ。
フィオナは香りを嗅いで「悪くない」と言い、レインは黙って口をつけた。エリナは自分の分を手に取りながら、レインに向き直った。「今日は、何の用?」
「二つある」 「一つ目から」 「石鹸と消毒液の追加注文」 レインが鞄から紙を取り出した。「学院の医療棟で試験的に使った結果、一定の効果が確認された。特に手術前後の消毒に使うと、傷の化膿率が目に見えて下がった」
エリナの背筋がわずかに伸びた。
「数字は?」
「ここに」レインが紙をテーブルに置いた。
「症例数、感染件数、日別の推移。三ヶ月分だ」
エリナは紙を引き寄せた。数字が並んでいる。前世で何度も見たタイプの表だ。エクセルではなく手書きだが、構造は同じだった。
傷の感染率が三分の二以下に下がっている。特に、手術後二日目から四日目のピークがなだらかになっている。 ちゃんと効いている。「学院としては、このまま使用を続けたいと思っている。ただ——学院が正式に採用するとなると、魔法省の許可が必要だ。その過程で、クロヴェル侯爵の耳にも入るだろう」
フィオナがすぐに反応した。
「つまり、あなたが来た一つ目の用件は『喜ばしい報せと、面倒ごとの予告』ってわけね」
「そういう言い方もできる」エリナは紙から目を離した。
「学院での採用は止めるべき?」
「それを決めるのはお前だ」 「レインはどう思う?」 「合理的に考えれば、採用すべきだ。救える命が増える。魔法師の負担が減る。患者の家族の負担も減る。それはこの国全体にとって利益だ」 「でもクロヴェルが動く」 「動く可能性は高い」フィオナが唇を尖らせた。
「動くって、どの程度?」
「おそらく最初は、学院に圧力をかける。『魔法以外の手段に頼るのは王国の誇りを傷つける』とか『魔法師の職域を侵す』とか、そういった名目で」 「くだらないわね」フィオナが吐き捨てた。
「くだらなくても、力を持っている人間が言えば現実になる」レインは淡々としていた。
「だからこそ、お前に知らせに来た」
エリナは、しばらく黙っていた。
数字を見る。学院で救われた命の数を、頭の中で具体的な顔のない人間たちに置き換える。ルシェムでのクラウス、子どもたち、グレンの手。あの延長線上にいる人たち。 それから、クロヴェルの顔を思い浮かべた。まだ一度も直接会ったことのない男の顔。ダリウスの、どこか影のある横顔。「止めない」
自分でも驚くほど、即答だった。
フィオナが少し目を見開いた。レインは特に驚いた様子を見せなかった。「理由を聞いてもいいか?」
「学院で救われる人間の数と、クロヴェルの不機嫌とを天秤にかけた。前者の方が重い」フィオナが、ふっと息を漏らした。
「そういうところ、本当に好きよ」
「褒めてる?」 「褒めてる」レインが少しだけ目を細めた。
「俺も、同じ結論だ」
「じゃあ話は早い。学院の採用は進めて。私たちはこっちでクロヴェルに備える」「備える?」と言い、フィオナが片眉を上げた。
「どうやって?」
「それが二つ目の用件。国王陛下が、お前に会いたがっている」部屋の空気が、わずかに変わった。
カモミールの香りも、木のきしむ音も変わっていないのに、空気の密度だけが変わったような気がした。「……今、何て」
エリナが聞き返した。
「国王陛下が、お前に会いたがっている。ルシェムの件、ベルナでの取引、学院での成果。いくつかの報告が陛下の元に届いた。その中に、お前とアッシュフォード商会の名前がある」
「なぜレインがそれを」 「俺の師匠が、陛下直属の魔法師団にいる。その経路で聞いた」フィオナが腕を組んだまま、低く口笛を吹いた。
「……とんでもないところまで行ったわね、あんた」
「行ったつもりはない」エリナは小さく言った。
王都ヴァルテ。玉座の間。国王。父がかつて夢見た「魔法に頼らない国家」の話を、わずか七歳の娘がその本人に語ることになるかもしれない。
実感は、まだなかった。「陛下は改革派だが、完全に自由なわけではない。貴族たち、とくにクロヴェルのような大貴族の圧力を受けている。その中で、平民出身の魔法師や、魔法以外の手段を持つ人間に興味を持っている」
「だから、私?」 「そうだろうと推測している」フィオナがエリナを見た。
「行くつもり?」
「行かない選択肢はある?」 「あるにはあるけど、それはそれで不自然ね。国王の招きを断った無適性の没落令嬢、ってレッテルが付く。それはそれで面倒」 「行く。ただし、準備が必要」 「当然ね。陛下がどんな人間か、何を求めてるか、どこまで本音で話せるか。事前に情報を集める」「それは任せよう」とレインが言った。
「俺には宮廷の情報を集めるルートがある。ただ、時間はあまりない」
「なぜ?」 「クロヴェルも、お前に手を伸ばし始めているからだ」エリナはダリウスの顔を思い浮かべた。穏やかな笑みと、笑いと一致しない目。その奥に隠された何か。
「どの程度、動いてる?」
「学院の一部の教師に、『魔法以外の手段を過度に評価するな』という通達が出た。名指しではないが、ルシェムの事例を暗に牽制している」「早いわね」フィオナが舌打ちした。
「でも、まだ直接じゃない。牽制の段階」
「そう。だからこそ、国王に会うタイミングは今が最適かもしれない」レインが続けた。「クロヴェルが完全に動き始める前に、陛下とのパイプを作る」エリナはゆっくりと息を吸った。
父が夢見た場所。 玉座の間。王と直接話せる場所。 そこに、七歳の自分が行こうとしている。 怖くないと言えば嘘になる。でも——「行く」
やはり、即答だった。
フィオナが小さく笑った。「と思った」
「怖くないのか」レインが聞いた。
「怖い」エリナは正直に言った。
「でも、怖くても行くしかない場所ってある」
レインの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……そういうところも、変わらないな」
「前にも言った?」 「似たことを」フィオナが二人を見比べて、わざとらしく咳払いした。
「はいはい、真面目な話は一旦ここまで」
「どこが真面目じゃないの」エリナが眉をひそめた。
「空気が固くなりすぎてるのよ」
フィオナが肩をすくめた。
「それに——レイン、あなた一つ勘違いしてる」
「何を?」 「この子、怖い怖い言いながら、怖いことを選ぶタイプだから。『無理をするな』って言っても無駄よ」レインがエリナを見た。
「……知っている」
「じゃあなぜまた来たの?」フィオナがニヤリと笑った。
「合理的に考えれば、情報だけ誰かに託してもよかった。わざわざ自分で来た理由は?」
レインが少し黙った。
沈黙が、また落ちた。エリナは、なぜか少しだけ胸がざわついた。答えを聞きたくて、でも聞きたくなくて、そんな矛盾した感情が一瞬で駆け巡った。
レインはやがて、いつもの平坦な声で言った。
「情報の伝達は、誤差が少ない方がいい」
「……それだけ?」 「それだけだ」フィオナが肩を落とした。
「はい出ました、合理的言い訳」
エリナは、なぜか少しだけほっとした自分に気づいて、内心で首を振った。
何に安心してるの。意味がわからない。 その夜、三人は遅くまで机を囲んだ。王都への旅程、いつ出発するか、誰を連れて行くか。留守の間の商会の運営体制。クロヴェルがどのタイミングでどんな手を打ってくるかの予測。
フィオナが宮廷と貴族社会の情報を並べ、レインが学院と魔法省の内部事情を補足し、エリナがそれを整理して行動計画に落とし込む。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
マリオが途中から帰ってきて、「難しい話してるなぁ」と頭を掻きつつ、お茶を運んだ。ルナは隅っこで静かに薬草を仕分けしながら、時々こちらを見ていた。
不思議な夜だった。
ルシェムの小さな長屋の一室で、王都の政治と魔法省の思惑と、国全体の衛生政策の話が同時に進んでいる。その中心に、自分がいる。
現実感は、やはり薄かった。でも——
机の向こう側にいるレインとフィオナの顔を見ていると、不思議と「できないこと」より「できること」が先に浮かんだ。
一人じゃない。
その実感が、怖さを少しずつ上書きしていく。 夜も更けて、話が一段落した頃。 レインが立ち上がった。「今日はここまでだ。宿に戻る」
「泊まっていけば――」エリナが言いかけて、フィオナと目が合った。フィオナが微妙にニヤついた顔をしていたので、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「……宿は取ってあるの?」
「取っていない」 「じゃあ泊まっていけば?」フィオナが代わりに言った。
「どうせまたここに来るんでしょうし」
「そうだろうな」レインが素直に頷いたのが、なぜか少しおかしかった。
その夜、レインは再びエリナの家に泊まった。 前回と違うのは、フィオナも隣室に残っていたことだ。三人で遅くまで資料を広げていたせいで、寝る時間がずれ込んだ。寝床に入る前、エリナはふと窓の外を見た。
いつの間にか、雨が降り始めていた。 遅れてやってきた、レインの雨。 やっぱり、あなたは雨と一緒に来る。 そんなことを一瞬だけ思って、すぐに首を振った。 意味のない相関関係に意味を見出すのは、合理的じゃない。 そう自分に言い聞かせながら、布団をかぶった。 でも耳は、屋根を打つ雨音を数えていた。 いつの間にか、眠りに落ちていた。レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。 その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」「ありがとう」「何か食べたいものはある?」「いつも通りで」「少しくらい特別なものを頼みなさい」「じゃあ、パンに蜂蜜を」「それだけ?」「十分です」 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」「うん」「何か欲しいものはあるか?」「今のところない」「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」「好きなことというのが、難しい」「難しい?」「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」「それを忘れろ、今日一日だけ」「忘れたら困る」「本当につまらないな、お前は」 マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。 エリナへ 父上の言葉について、書いてくれてありがとう。『この子は私よりうまくやる』という言葉
橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。 朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ
流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ







